アメリカでは、昔から「陪審員制度」ってのがあったけど、日本でも「裁判員裁判」が始まった理由のひとつは、たしか、裁判官や検察官、弁護士といった、裁判のプロばかりでなく、一般庶民の考え方や感覚を、刑事裁判に反映させるため、と記憶している。
この制度開始から、ちょうど10年たった。
しかし、最近の判例を見ていると、
「こんな状態なら、裁判員裁判なんて要らないじゃん」
と腹の立つようなものが散見される。
昨日の報道によると、大阪は心斎橋で、平成24年、通り魔の男が、何の関係もない4人を殺害した罪に問われた事件で、最高裁は、死刑ではなく「無期懲役」の判決を下した、というのだ。
何の罪もなく、何の関係もない人を4人も殺しておいて、死刑ではない、ってどういうことだ。
これぞ、一般庶民の考え方からズレまくっている証拠でなくて何なのだ。
それでも一審の裁判員裁判では死刑判決だったのである。
それを、大阪高裁では無期に減刑し、それが結局、最高裁にお墨付きを与えられた形だ。
裁判員裁判が一審で死刑判決を出したものを覆したのは、これで5件目だという。
こと死刑の可能性があると、裁判員の出番は全くと言っていいほどなくなる。一審で死刑判決を受けたものは、最高裁まで粘れば逃げられる、ということだ。
最高裁の判事なのだから、頭は相当良いのだと思うが、その彼らが唱える判決理由で、アホか、と思ったのが、
「犯人が凶器の包丁を買ったのは犯行前日だから、犯行には計画性がない」
というもの。これを聞いたら、我々一般庶民は、
「じゃあ、何か月前から計画していても、包丁を買うのはその朝にすれば、計画性を問われないことを、最高裁が判例として確定した」
と受け取るのだが、頭が良いはずの最高裁判事さんたち、そうですよね?
この犯人は「刺せと聞こえた」と言って、精神障害の気があるそうだが、そういうキジルシに刺されて命を落としてしまった、何の罪もない人たちやその家族はどうしたらいいというのだ?
これじゃ、日本はまさに、犯人に甘い「殺され損」の国ではないか。
殺した者は、三度の飯と寝るところは保証され、弁護士がついてあーだこーだと高邁(しばしば荒唐無稽)な理論で弁護してくれるのに、殺されてしまった人たちには、何も反論する権利がない。
そして、こういうキジルシには、賠償能力なんて1円もない。
裁判官が過去の判例の量刑に照らして判決を出し続けるなら、高裁も最高裁も要らない。
「量刑診断データーベース」にかけ、コンピューターに量刑を出してもらえば済むではないか。
今日の別件の判決だが、新潟県で、いたいけな女児(7)にわいせつ行為を行い、殺してしまった25歳のクズにも「無期懲役」の判決が下された。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191204-00000550-san-soci
殺されてしまった女の子、そのご両親はどうしたらいいのだ。
最近読んだ話では、裁判員裁判が死刑判決を出そうとすると、
「他の裁判所の判例ではこれこれこうだから、懲役●年が相当なんですよ」
と、余計な茶々を入れて来る裁判官や弁護士がいると聞いた。ある裁判所だけ、それら他の判例と異なる判決を出すとまずいのだそうだ。
それなら余計、裁判員なんて要らない。