うちの旦那が私と一緒になって日本に住むことに決まったとき、私は、

「日本の生活では必要になるから」

と、彼のために「認め印」と「銀行印」を作ってやった。カタカナで表記するのも間抜けなので、彼の名前をなんとか発音の似ている漢字に直して作った。彼はそれを大層面白がった。ある日、自分の父親に宛てて手紙を書いたとき(注:当時はまだメールなんてなかった)、文末の自分の名前の横っちょに認め印を押して出した。

父親からの返信には、

「最後のお前の名前の横にあった赤い丸いものは何だね?」

とあった。そうか~、知らない人は本当に知らないんだ~~、と思った。

 

私が住んでいる区では、昔、住民票などを取るときは、印鑑が必要だった。ある時印鑑を持たずに区役所に行ってしまったとき、立って案内しているおじさんに「印鑑忘れちゃったんですが」と聞いてみたら、その人、

「ボインちゃんでいいですよ」

と言い、はっと気がついて「拇印でいいですよ」と言い直した。今でもあの時のおじさんの「しまった」という表情が思い出される。

 

まあ、私の区の場合、ほどなく拇印も押さなくて済むようになったけど、「どうしても印鑑を押していなければダメ」という場合、なぜ必要なのか、説明がつくのだろうか。とりわけ、印鑑忘れちゃった、という時に、

「あそこの店で売っているから買ってきてください」

と言われ、300円くらいで三文判を押した経験のない中高年は少ないだろう。

この、店でさっき買ったばかりの、つまり最初から自分の物でもなんでもないハンコがなぜ必要で、なぜそれに効力があるのかをきちんと説明できる人はいるのだろうか。それならまだ拇印の方が理屈にかなっていると思う。

 

「ハンコ議員連盟」というのがあるそうだ。ハンコ業界が、飯のタネを維持するために、国会議員に働きかけた組織だそうだけど、そういう、風前の灯火の職業の人々が、国会議員を抱き込んで食いつないでいこうという政治活動は、いただけない。

 

私は、外資系勤めを始めてから、会社でハンコを押した経験が無い。前勤めていた会社でも、最初は紙で締結していた契約書も、ほぼすべてPDFに切り替えた。社長の署名は、電子署名である。だから在宅でもPCが使えれば契約書が作れた。

また、PDFだと、本来印紙税の対象となる請負などの契約書でも、「紙での締結ではない」という理由で、印紙税非課税になるので、まこと嬉しかった。はんこも馬鹿馬鹿しいが、印紙税はもっと理屈に合わない税である。

 

だからね、電子化に抵抗し、印鑑の保存を訴え続ける人々は、時代から置いて行かれるよ。

とはいっても、私だって長年社会で働いてきたからこういう変化を知り、対応してきたのだけど、国会議員の方々は、会社勤めしていないから、世の中のそういう実態についていけてないのだろうな。

 

ただ、皇室の文書とかにはんこを押すのはすてき文化だと思うから、それは維持して欲しい。

そうはいっても、日本では昔「花押」という署名文化があったのに、いつから花押は廃れてはんこに取って代わられたのであろう。