何の思い出もない「父の日」

昨日は、父の日だったのだ。けど、子供の頃から、家で父の日を祝った記憶が無い。幼稚園の時、父の似顔絵を描かされたが、5歳の子供心にも、余りにも似ていなくて、ひどいできばえだったから、父には渡さなかった。

15歳のころから、父とはどんどんそりが合わなくなっていった。2009年の父の葬儀のときには、一滴の涙も流れなかった。

 

父は、苦労した人だと思う。

貧乏育ちで、家族に恵まれず、親の愛情も知らず、運転手として入った会社で無理矢理営業に回され、学校も出ていない無学無教養と、死ぬまで直らなかった新潟弁で、周囲もさぞかし迷惑だっただろうな、と思う。

性格も頑固かつ異常で、思い込みの激しさたるや、一度「カラスは白い」と主張し出したら、死ぬまで何百羽のカラスを見せられても、絶対に「白い」と言い抜くタイプだった。

母が父と結婚したのは、寒くて大嫌いな秋田から抜け出すチャンスだったからである。東京に住んでいた父との間に立つ人がいて、一も二もなく嫁に来ることにしたのだ。この当時、結婚は「愛」とか「恋」じゃなかった。

それでも、昔の人で、頭も考え方も昔流だった母は、「この世では、男はいつも絶対女より偉い」という主義で、どんなに父がズレたことを言いまくっても、最後は服従していた。

父のズレっぷりを挙げたらブログを何百ページ書いても足りないのだが、1つ挙げるとしたら、医学に完全に無知、無関心だったことがある。

母がNHKで「きょうの健康」などを見て、病気のことを学ぼうとすると、横から出てきてテレビを消してしまった。

「こんなもの見やがって!」

などと言いながら。

父の考えによると、病気とは「根性のない人間がかかるもの」で、たとえかかっても、クソ根性を出していれば治るものなのだった。

だから、母が人口股関節に置換する手術のため入院したときなど、見舞いに行った部屋に同じ手術のため入院している中高年婦人らに向かって、

「どいつもこいつも、我慢のならないやつばっかりだ!!」

と、はっきり聞こえるようにののしった。

退院後、母がそれをなじったけど、聞き入れるような父ではなかった。

 

父にとって、この世の病気とはすべて「熱が出ること」であり、病気が治るとは「熱が下がること」であった。

母があるとき、心身のショックで倒れ、体重も減り、熱が上下していたときも、

「これは風邪なんだ、お前は風邪なんだ」

と言い張り、風邪薬の「ルル」を飲ませていた。母にとって父は男だから100%正しい存在なので逆らえなかったのだが、よく母は死ななかったものだ。

そんな父も寄る年波で、それまで岩のように頑丈だったのに、上述の母の入院中、初めてインフルエンザにかかったことがあった。

がんがん熱が出たので、さすがに医者に行き、インフルエンザA型の診断を受け、薬をもらってきた。

相当こたえたらしかったが、治ったあと言ったのは、

「オレも、インフルエンザ予防接種を受けようかなあ」

だった。私はあきれてのけぞり、

「何言っているの?予防接種って、かかる前に受けるものなんだよ! かかったあとに受けるものじゃないの!!」

と叫ぶと、「そうかあ?」と言う。あれほど新聞を読んだりTVを見たりしているのに、こういう知識はちっとも入ってこないらしかった。

癌にかかったときも、主治医に、

「何でこんな病気にかかったんだ」

と何度も聞いていた。世界中、誰に聞いたってわかる人なんかいないのに。

 

私は、10代のころから、生理の負担が毎月とてつもなかった。世の男たちは、こんなつらい思いをしなくて済むのが、どれほどまでに幸運で楽なことか、少しでも考えて欲しいものだ。私など大学受験の日、予定外に始まってしまい、面食らったこともある。これがある限り、男女は平等なんかじゃない。

そのせいで、私の人生は、ずーっと鉄欠乏性貧血との戦いだった。いつも増血剤を飲んでは失い、増血剤を飲んでは失い、で、青い顔をしてフラフラしていた。持久力なんかなかった。

原因が生理なので、増血剤の処方を受けに、内科でも可能だけど、産婦人科に通うことにしていた。

さて、私が産婦人科に通っていることを母に話した後日、

「お父さんがね、あんたが産婦人科に通うの、やめろ、って話していたの」

と母から聞いた。私は父とは直接話すことはまれなので、だいたい話は母経由だった。

「なんで?何が悪いの?原因は生理だよ?」

と私が反論すると、母は、すごく気まずそうに、

「お父さんがね、若い結婚前の女の子が産婦人科に通うと、妊娠中絶をしに行っていると思われるから、って言うのよ」