あの、安倍元総理の現場に立ち寄ったとき、現場周辺地図を見たら、その地点から600mくらいしか離れていないところに、
があるのを知った。当時、女帝は、適任な皇太子が現れるまでの「つなぎ」として、天皇の未亡人や皇女が立つものだったと思うが、孝謙・称徳天皇のように、次代に信任が置けず、重祚する事例もあったのだ。ちなみに、正倉院に多数の宝物を献上し、毎年正倉院展を開催できるだけの功績をなした光明皇后(と当然、聖武天皇)の皇女でもある。聖武天皇・光明皇后は、成人する男子に恵まれなかった。
私は古墳、とりわけ、前方後円墳マニアなのだけど、残念ながら横から見ても、こんもりした森を見るだけで、実際の形状はわからない。
ともあれ、天皇一人が亡くなると、これほどまでに広大な墳墓を作るとは。建築作業にかり出される民草どもの苦労も、また、費やされる税も、考えただけでひえ~っとなる。
そして、奈良、って、昔は首都だったんだなあ、と改めて悟る。
孝謙・称徳といえば、道鏡というお坊さんを寵愛し、「法王」という地位にまで就任させた女帝としても知られる。道鏡は、生涯独身だった女帝の厚い信任を得たばかりでなく、女帝との恋愛関係にまで発展したらしい。女帝といえども人の子、病を治してくれたばかりでなく、ひたすら彼女に尽くしてくれた男を寵愛するのもやむなしだったのだろう。
ちなみに、道鏡と女帝に関しては、ひわいな川柳がいくつか残されている。しかし、道鏡の「巨●」説は、もっと後世のネタであったそうだ。孝謙・称徳女帝にはなんと気の毒な。崩御されたのは770年だったそうだから、あの世から、1252年もの長きにわたって、お怒り、かつお悲しみになっているのではないか。そんな気持ちもこめ、陵の前でちょっと手を合わせた。
下の写真は、京都の有名な観光地、「哲学の道」から見下ろすことのできる、きわめて希有な皇族のお墓である。以前から、「これってどなたのお墓なんだろう?」と思っていたが、調べてみたら、後水尾天皇の第4皇女、昭子内親王(1629-1675)のお墓だそうだ。
上から見下ろすことのできる皇族の墳墓なんて、私の知る限りこれが唯一の例外だ。他にご存じだったらご教示願いたい。
昭子内親王とやらも、こんなに観光客たちから見下ろされる死後を送るとは想像もしなかったに違いない。
しかし、江戸時代になっても、一皇女さまに、これだけの墳墓。広いねえ。