「ごんぎつね」と現代っ子の解釈

新美南吉作「ごんぎつね」は、広く知られてる民話だと思う。

私は、悲しい系の動物の話にひどく弱い。「かわいそうなぞう」なんて、読むたびに泣く。

 

さて、この「ごんぎつね」だが、私の記憶によれば、小学校4年生から6年生のいずれかの国語の教科書に出てきた。

 

下の写真のとおりだが、これ系の話に弱い私は、後年、教科書を捨てる際、この「ごんぎつね」だけを教科書から切り取って、袋も特別にあつらえて保存したのである。

 

 

小学校の教科書から切り抜いた記事は、あとにも先にもこれ1つ。いや、小学校どころか、小中高大といろんな学校に行ったけど、教科書から切り取ってまで保存したものは、これだけなのである。

小学校から数十年経った。我が家は転勤、転居をかさねてきたけれど、今日までこれが私のもとに残っている。奇跡的。

 

いたずら狐のごんは、兵十のおっかあが死ぬ間際に「食べたい」と言っていたであろうウナギを、いたずらで、兵十のびくからさらってしまったことへを詫びようと、その後、栗やマツタケを兵十の家に何度か届けに行った。しかし、それを知らず、兵十は、栗を持ってきたごんを、「またいたずらにきやがった」と思い込み、火縄銃で殺してしまう。しかし、その時、兵十は初めて、栗を持ってきたのがごんだった、と知るのである(涙)。

 

さて、先日、ラジオで信じられない話を小耳に挟んだ。「最近の子供たちの国語力の低下」という話だった。

ごんぎつねには、兵十のおっかあの葬式の話が出てくる。村の女たちが、大きな鍋で、何かをぐずぐずと煮ているという描写が出てくる。それを見て、ごんは「ああ、葬式だ」と悟る。(下のページの4~7行目)

 

 

さて、ラジオで聞いたのは、この、「大きな鍋の中で、何かがぐずぐず煮えている」という文章を見て、小学校の先生が、子供たちに、「この鍋では何を煮ているのでしょう?」と聞いたところ、子供たちが返ってきた答えが、

「兵十のおっかあの死体を煮ている」

といった、途方もないものだった、というのだ。

 

子供たちの国語力なんて、年長者からしたらそりゃ、ずっとずっと低いものだ。そこを、読書を重ねたり社会人経験を積んで向上させるのが世のならいだけど、いやしくも、国語の時間に、「鍋でおっかあの死体を煮ている」という答えが出るとは。

多分、現代では、葬式の参列者のために近所の女たちが総出で食事を作るなんて習慣が消えてしまったせいもあろう。しかし、よりによって、こんな悲しい物語から、そんなおぞましい回答が出てくるとは。

小学生もピンキリだけど、キリのまんま大人にならないで欲しい。