佐久間象山と横浜

子供のころ、長野市に住んでいた。

当時、「信濃の国」という県歌を覚えた。長野県で育った人なら大抵歌えるらしい。

歌詞はとってもむずかしくて長い。

 

 

5番の歌詞で、県出身の偉人を褒め称えている。が「象山 佐久間先生も~」と、ガイジンのように姓と名をひっくり返して歌われているのは何故なんだろうな~と思っていた。

長野県人はこの名を100%「ぞうざん」と読むが、それ以外の人らは「しょうざん」と読む。とにかく、佐久間象山という、松代出身の偉人が江戸時代後期にいた。塾を開き、かの勝海舟坂本竜馬吉田松陰らを教えたというから、相当の秀才だったのだろう。

 

この前、長野に行ったとき、松代にも足を伸ばしてみた。昔の同僚に松代出身の人がいたことと、城や城跡が好きなので、松代城趾を見ておきたかったから。

 

しっかし、ほんとうに何にもない田舎だった。それでも一応観光案内所はあって、女の人が一人ヒマそうにしていたので、城趾への行き方を尋ねてやった。

 

 

幸い、城趾はとてもきれいに保たれていた。

周りにも「旧●●家跡」という門構えの旧家が観光案内用にいくつか展示されていたけど、どうってことなかった。

いつも思うんだけど、こんなになにもない、スーパーはおろか店1軒もなさそうな土地で、皆さんどうやって生きているのだろう? 昔、小学校の時、先生が、

「国が長野に鉄道を引こうとしたとき、いまの長野駅の場所か、松代にするか議論になった。でも、松代の人たちは、蒸気機関車の煙が農作物に被害をもたらす、って反対した。それでいまの長野駅の場所に駅をつくったわけだが、結果、長野は栄え、松代は衰えた」と教えてくれた。

 

あと1つ、象山神社にも寄った。信濃の国に歌われるくらいの英傑だけど、Wikipediaなどを見る限り、あまり人物的には評判はよろしくなかったらしい。パンフレットをもらって来て読んだ。

 

こちらは、京都市の三条木屋町高瀬川にかかる小さな橋のたもとに、佐久間象山(+大村益次郎)遭難の石碑が立っている。余談だが、大村といえば、靖国神社に像が建てられている。

 

 

実際に象山らが殺されたのは、ここよりもうすこし北へ上がったところだ(注:京都の人たちは、北上を「アガル」という)。

供も連れずに、徳川慶喜に誘われるまま一人上洛し、尊王攘夷派の者らに殺された。

 

本当の殺害現場には、高瀬川沿いに、こんな木の看板が立っている。

 

 

この場所には私ども夫婦は非常に馴染みが深い。ただかつて京都に住んでいただけではない。この看板の道を挟んだ反対側のビルの2階に、京都で、というか日本でも最も美味しいインド料理店があるからだ。ムガール、という。

 

 

この場所に移転する前の時代から知っている。ランチは普通だけど、ディナーは秀逸。ちょっと高いのが玉に瑕だけど、それだけ味に自信を持っている証拠だろう。本場のインド人にも「インド人には出せない味」と絶賛され、私らがこの店のことを教えた知人たちには、ことごとく感動、感謝された。中にはわざわざここで食べるためだけに京都に行く友人も。(ただ、ここ最近はオーナーも代わり、かつてより味が下がった、と。残念)

 

さて、佐久間象山つながりで最後にもうひとつ。

開国派だった象山は、ペリーが浦賀に襲来した後、開国のための港として「横浜港」を推挙していたのだ。

当時、横浜はただの田舎漁村。土地の形状も、今の横浜とは全然違って、今の関内駅くらいまで海で、横浜村はそれを囲むような半島のとっさきの、横に伸びたところにある村だった。だから「横浜」と呼ばれたそうだ。

 

私がたまたま親が流れ着いて住むことになった横浜。

子供のころ「象山佐久間先生も~」と歌っていた人が、横浜開港を進言していたとは、象山神社を訪れて、パンフレットをもらって読むまで、知らなかった。ひえ~っ。