NHK BSで今、10年前に放送した「あまちゃん」の再放送をやっている。その中で、能年玲奈が演ずるアキちゃんが、
「海女は日本と韓国にしかいないんです」
と観光客らに説明していた。へえ。それが本当の話なのだとしたら、なかなか興味深いことだ。東アジアの海の女たちは大昔から働き者だったんだな。
ところで私、学生時代は古典なんて大大大っ嫌いだったのに、脳細胞のどこかにはひそかにしまい込まれているらしく、ふっと思い出した。かの有名なエッセイスト、清少納言の一文である。
清少納言は1000年前の貴婦人だから、海水浴どころか、海に近づくこと自体が稀だったと思うのだが、その稀な体験をおどろおどろしく綴った文章があったのだ。
「うちとくまじきもの」
というタイトルで、これはどうやら「打ち解けにくい」だけではなく「気が許せない」といった意味があるらしい。
ともかく、海のことなど無知な清少納言がたまたま海に行って舟遊びなどしてみたところ、男どもが、舟の上に座り、縄をたらしているのを発見する。が、縄の先には、女たちの体がゆわえつけられており、その女たちは、海に潜って懸命に仕事をしているではないか。しかし、当の男どもと来たら、船の上でのほほん、いまの時代で言えばスマホでも見ているようなのんきさでいるため、清少納言は怒りに震え、それを素直に書き残してる。
原文
海はなほいとゆゆしと思ふに、まいて、海女のかづきしに入るは、憂きわざなり。腰に付きたる緒の絶えもしなば、いかにせむとならむ。男(をのこ)だにせましかば、さてもありぬべきを、女はなほ、おぼろけの心ならじ。舟に男は乗りて、歌などうち歌ひて、この栲縄(たくなわ)を海に浮けてありく、危ふく後ろめたくはあらぬにやあらむ。のぼらむとて、その縄をなむ引くとか。惑ひ繰り入るるさまぞ、理(ことわり)なるや。舟の端をおさへて、放ちたる息などこそ、まことに唯見る人だにしほたるるに、落し入れて漂ひありく男は、目もあやにあさましかし。
↑全然わからないので現代語訳で読みましょう
海はやはりとても恐ろしいもののように思われるのに、まして、海女が獲物を捕りに潜るのは、大変つらいことである。腰に付いている紐が切れでもしたら、どうするのだろうか。せめて男がするのであれば、まだ良いのだろうが、女はやはり、普通の落ち着いた心ではないだろう。舟に男は乗って、歌などを歌いながら、海女の栲縄(たくなわ)を海に浮かべて動き回るのは、危なくて心配なことだと思わないのだろうか。海女が舟に上って来る時には、その縄を引くのだという。男が慌てて縄を繰り入れていく様子は、もっともなことである。海女が舟の端を押さえて、放つ苦しそうな息など、本当にただ見ているだけの人だって涙がこぼれるくらいなのに、海女を海に落とし潜らせて海を舟で漂っている男は、全くあきれたもので情けない。
海は恐ろしいところよ!
なのに、こんな危険な仕事を男がするのならともかく、女にやらせるなんて!
男は舟の上でのんきに歌なんか歌って、女が上がってくるときに引っ張りあげているだけじゃん!
なんだこりゃ、あいつら許せん!!
・・・てな怒りの感情が、モロに伝わってくる。
この文章は、高校時代持っていた枕草子の解説本で読んだのだが、その解説文には、
「海女の腰なわを舟の上で持っている男は、その海女の夫か恋人」
とあって、へえ、そうなの、と思った。夫か彼氏のいない女は海女になれなかったらしい。
清少納言が涙がこぼれるくらい同情した、
「海女が舟の端を押さえて、放つ苦しそうな息」
っていうのはいわゆる「海女笛」のことだろう。清少納言がそれを知らなかったのも無理はない。
しかし、男が舟の上でなんにも仕事をしていないとは言わないまでも、どう見たって女の労働力の方が圧倒的に大きいこの「海女漁」。記録によると、魏志倭人伝にもこの仕事が記載されているようで、もちろん、男性版の「海士」もいたけれど、日本と韓国で、こういう女性労働がタブーなく発展した理由は何だったのだろう?