何が「一般教養」なのか(自分の考えだけを押し付けないこと)

先日読んだ本(1970年代に出版)に、「ちかごろの若い人に、誰もが知っていそうな一般教養が通じなくなった」と言ったことが書かれていた。

この筆者は、高齢の学者さんで、自分が教えている大学生の話を聞いてから、
「それはまるで『花見酒』だね」
と返答をしても、その学生さんはきょとーんとしていた、という。また、別の学生さんにも、同じように、
「それは『ねどこ』みたいだね」
と言ったら、その某一流大学生の人は素直に「それって何ですか」と聞き返してきた、と言う。
 
一流大学生でも、熊さん八っつあんが登場する有名な落語の話を知らない、と嘆いていたのだが、無理もないと思う。私の周囲で、落語とか歌舞伎とか「寅さん」の話をする人など、これまでの人生で出会ったことがない。もしかしたら、私が話題を差し向けなかったために話に登らなかったのかもしれないが、ともかく、それらに知識が無いことで、不自由や恥を経験したことがないのだ。
 
学生なら、テストに出てきそうなことを懸命に暗記するのが、日本に生まれた定めである。
落語の筋なんて、学校でも習わないし、テストにも出ない。よほど親が好きとか何かのきっかけを持たないと、歌舞伎とか能とか浄瑠璃とか寅さんとか、それらがらみのことを知らなくても、生きていくのに不自由しない。
 
私の父方の祖母は、人から嫌われるために生まれてきたようなクソババアだった。ただの田舎者で、尋常小学校も行ったかどうか程度の無教養者だったのに、知ったかぶりが服を着て歩いていたようなババアで、どうでもよい知識を「私はこんなに知っているんだぞ」と言いふらす(しかも、間違いが多々あった)のが何より生きがいであった。このババアのことを言い出したら、本が10冊くらい書ける。私が子供を生まなかったのも、こんなババアの血を残さないためだったが、私は、このババアの家に、大学1年のときだけ下宿させてもらわざるを得なかったことがある。
このババアの「教養の有無」とは、「歌舞伎の〇〇の助」を知っていることであった。田舎の高校出たての私は、ババアが好きな「〇〇の助」のことなんて当然、1mgも知らなかった。それを聞いたババアは、心底私を見下す目をして、
「お前、大学生にもなってそんなことも知らないのか」
と、思い切り幸せそうに、私を馬鹿にしたのであった。
 
イギリスだと、「マザーグース」を知っているか、また、それ以外の西洋社会では、公教要理を心得ているか、などが基本的な教養だろうと思うのだが、日本のそれは何だろうか。考えてみたら、教科書に登場した以外「古事記」も「日本書紀」も読んだことがない。支那人だと「三国志」だったりするのかな。
 
何が言いたいのかというと、「このくらいの一般教養は知っているべき」は、年とともに、時代とともに、変化していくものだと思うので、自分が知っていることを相手が知らないからと言って、人を馬鹿にするのは避けた方が賢明だと思う、ということだ。
これからの世代は、古典より、ネット、PC、スマホ、ゲームの知識にたけていることが必要不可欠となる。若者らはすでに、私より数段上の知識を持っている。それらが「必要不可欠な一般教養」に代替されるのだろうか。