東大・上野千鶴子 果たしてこれが「祝辞」か?

自らも東大卒業生であり、女性として早期の教壇に立った数少ない人物である上野千鶴子氏。

彼女がこの度東京大学入学式で行った「祝辞」が、物議をかもしている。
 
東大のHPに全文が出ているので、時間と興味のある方はどうぞお読みになってください。
 
 
私は年取っているので、今から約30年前、アグネス・チャンという朝日新聞御用達の支那芸能人が職場に子供を連れて行く行かないのという「アグネス論争」に、この人がアグネス擁護派として勝手に登場して来たときの論調を見てから、この人については、学校の勉強はできるのであろうけど、思想や人格については完全に嫌悪感を持つようになった。アグネス論争について、至極まっとうな意見を述べられた曽野綾子さんに、一方的に噛みついては、
曽野綾子? 作家という男女平等な世界で生きてきた女にあれこれ言ってほしくない」
などと狂った論を述べ(曽野氏は別に、作家という職が男女平等だから選んだわけではない)、最後は、
「つまらない論争に巻き込まれてしまった」
などと、自分から勝手に首を突っ込んできたくせに、あたかも周囲から巻き込まされ、被害を受けたような書き方をしていたので、曽野さんもあきれはてておられたのをよく覚えている。
この上野という女性教師は、「男女がすべて100%徹底して平等でないと誤っている」と思っているらしい。
しかし、男女の脳や肉体が違う限り、そんなことは22世紀、23世紀になっても絶対起こりえない。そんなことが何故わからないのだろうか。
 
同祝辞に述べている「文部省の担当者」の意見とは違うが、私がこれまで見てきた限り、理数系はどうしても男子の方が得意だ。だから、理工学部や医学部に男子学生が多くなるのは自然の理だと思っている。上野氏は、これが50:50にならない限り男女差別だと思っているようだが、そんなことはあり得ない。
ならば、文学部に女性が多いことは、「男性差別」として問題にしないのだろうか。それも不思議だ。保育や看護の世界に男性より女性が多いのも、性質的に女性に向いているからだ。そういった分野に男子が少ないことは、一切問題にしていない。
更に、
 
東京大学の)学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。
 
これもまた、男女50:50理論の押し付けだと思う。「大学院・博士課程に進みたいのか」「教授職になりたいのか」は、女性の進出を拒む背景があれば問題だろうけど、女性自身に、「そこまでなりたくない」という自由意志があって悪いのだろうか。女性に国会議員が少ないのも様々な要素があるだろうし、それはそれで問題だろうけど、「教授・議員になりたくない」「そこまで大変な人生を送りたくない」という意思を持っているのだったら、やむを得ない。なりたくない人に、無理やりその仕事をさせる権利は誰にもない。医学部以外の部を卒業した人の進路は、各自の自由になる。「なりたくないからならない」のなら、それは差別ではない。ただ、女子の野心を折ってしまうような環境や文化は改められなければならないが。
 
医学部だけは、卒業後、圧倒多数は医師になるわけだが、そこで医学部が女子を多く受け入れたくなかったのは、やはり出産や家庭事情で辞めやすいこと、そして、緊急患者の少ない眼科、皮膚科に集中しやすいからだ。医者、特に大病院は24時間開いていないと、人が死ぬ。そういう状況に捨て身で対応してくれる人、となるとどうしても男性になる。「子供の世話で5時で帰ります」「授乳中だから代わってください」ってわけにはいくまい。だから男性を多く採りたいと私大医学部が考えるのが、そんなに悪いこととは思えない。ただ、絶対的に悪かったのは、それら私大が選別を「こっそり」やっていたからだ。最初から「男子90人女子30人」などと公示すればいい。
 
上野氏についてさらに疑問なのは、女性が「権利」だの「平等」を求めるなら、「義務」も男性と応分に負担すべきだという視点が皆目見当たらないことである。この人は、30年前と変わらず、女性に都合の良いことだけ叫んでいる。義務負担はどうした、義務負担は?