「親戚は 婆さんばかり 夏休み」

つまらん俳句をタイトルにしてしまった(↑これって俳句のレベルかな?)

 

子供の頃、夏休みになると、父か母の里に連れて行かれることがたびたびあった。

いま思うと、4人家族を長期間受け入れるって、先方はどんなにか大変だったろうかと同情する。しかし、子供だったから、そんな心理は微塵もなく、ただ親に連れられて行くだけのことだった。乗り物に弱い私は、長時間の移動中、げーげー吐いた。そこから既に、行く気力がめげていた。

 

「屋根葺き」のネタの時にも書いたけど、私の母は、相手が子供だと思ってか、具体的な説明をするのを省く人だった。

これから連れて行かれるところがどこで、どういう関係の誰がいるのか、私は子供ながら細かい情報が欲しかったのに、母はただ、

「新潟の(秋田の)お婆ちゃんちでしょ」

としか言わない。そしてどこの親族に行っても共通するのは、しわしわの梅干しみたいな老婆が必ずいることだった。反面、おじいさんはただの一人もいない。戦争で死んでしまったのか、私の世代的なものなのだろう。

私は核家族だらけの団地で育ったので、なぜ、あれほど顔や手がしわまみれになる生き物が存在するのか、測りかねていた。

 

訛っていて言葉がわからなかったし、便所はぼっとんだったし、ヤブ蚊が強烈で全身刺されまくって腫れ上がったし、食べ物がまずかったし(←これホント、田舎だからといって食べ物が美味しいことはない)、いとこたちと行った駄菓子屋で買ったものも強烈にまずかったが、いとこたちは平気だったのに私だけそのあと腹痛と嘔吐でのたうち回ったし。

遊ぶ道具もなかった。今の子供だったらゲーム機があればどこでも遊べるけど、当時はそんなものはなかったから、川で泳ぐのがせいぜい。やることがなくてぽつんとしていると、母から「そんなつまらなそうな顔をするんじゃありません」と叱られた。母は、説明不足だった上、見栄っ張りだったのだ。

 

反対に、梅干しがうちに遊びに来ることも時々あった。特に父は若い頃、いろんな婆さんに世話になったからといって、4人家族ギリギリのスペースしかない我が家に人を呼ぶ癖があった。母は料理上手だったから誰もが母の料理を堪能していたけれど、母はいつも「うちは貧乏」とこぼしていたのに、どうしていつも山のような料理を作ってもてなすのか理解できなかった。うちからお金がなくなったら困ると思い、客に「あまり食べたら駄目」と伝えたら、これも親から怒られた。

 

婆さんの中に一人、「口避け女」のようなのがいた。これも父が「お世話になったから」と呼んだ婆さんだったが、幼い私にはこの、耳たぶまで裂けた大口を持つしわしわ婆さんが恐ろしくて逃げ回っていた。よって、この婆さんは、私がなつかないので憤慨していた。母にはそれも叱られた。

またこの婆さん、味噌汁のことを「おつけ」「おつけ」と呼ぶのが、私はいやで仕方なかった。

「○○さん(母)、おつけがないわよ」

とか言う。私は母に「おつけ、なんて言わないよ」とこぼすと、母は「おつけ、とも言うのよ」と教えてくれた。後年、味噌汁のことを「おみおつけ」とも言うらしいことを知った。「御御御付け」、たは、敬語の三重唱だった。

 

本当に、親の代って、親戚同士よく家に呼び合ったものだった。母が台所に立っている間、みんな飲み食いしてわあわあ大騒ぎをしていた。

私はしないけどね。いとこなんて、今、どこかで会ったったって、絶対に顔がわからない。

遠い夏の日の記憶。